第1章 笠山の歴史

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桃の季節・梨の季節・柿の季節   笠山の果樹栽培

 

 草津市の南端に位置する笠山一帯は、標高110~120メートルで丘のようななだらかな傾斜地。

 気候的には瀬戸内に近く温暖で風水害の少なく冬の雪に悩まされることはめったにありません。

 土質は、赤土・粘土。石ころと砂が混じった土。赤土は糖分の高い果実ができると言われました。

 また石ころの交じった砂の互層となっていて、果物栽培にとっては、最高の地であるといわれていました。また、草津市は東海道と中山道が分岐しているところで京都・大阪の大都市にも近くにあります。このような交通の要衝といわれる位置と遠くに眺める山々や琵琶湖を眺める絶景が、多用な土地利用を可能にし、人々の暮らしを恵み多いものにしてきました。
 

 果樹栽培のもうひとつの要素、風の動きです。なだらかな丘陵地で以前は障害物もありませんでしたので、地上の風は朝は琵琶湖から山手に、夕方はその反対に流れました。花粉の勾配に適していて果実を栽培する絶好な風がありました。
 

 「この地ならば、大規模な梨園を拓くことができる」と夢を描いた先人を想像します。

 だが、この時は、果樹園はまだ面影もなく、小石原の松さえろくに生えない荒地で、人の手が入ることを幾度となく拒んできたところでありました。

 しかし、この地の先輩たちは、ハンデイを知りながらも、そこに見向きもせずセッセと土壌を整え、自分たちの果物を作品として世に贈り続けられました。
 

 紀州のみかんで、その産地が南斜面と北斜面を比べれば、南斜面の肌が好まれます。風あたりが強いほうが薄くてきれいな肌になります。鳥取の二十世紀梨が世に出たとき、梨の美しさに驚きました。

 しかし、視察などを通して現地を訪れた先人たちは、「日本海から砂丘に吹く強い風に負けた。しかし、あちらの地質は砂地だから、味では負ける訳がない。」それまで、梨の栽培にかけては先進地と思っていた悔しさをこんな言葉で言い表していました。

 味は糖分で計られます。今は品種改良によって鳥取にも赤ナシの系統の品種に移行されていますが、当時の人たちは粘土の混じったこの地のほうが有利という思いがありました。砂地は味が薄いといわれるのは、糖分が蓄えにくいところがあるためです。