先人のご苦労

No 83104
 

入植当時は、松の木や雑木あるいはススキ・ハゲシバリのようなものがいっぱい生い茂っていました。この石ころや雑木などを始末をするところから始めなければなりません。荒地を開墾するわけですから、当時はブルドーザーだとか、いわゆる機械というものはもちろんありません。大正の初めですからね。石ころの混じった赤土は、雨が降るとゴテゴテと靴や農具に土がくっつきます。日が経つと固くなって荒地のようになってしまいます。荒れた大地に鍬(くわ)を入れ、土壌改良のために、京都・伏見に駐屯していた騎兵隊から馬肥を取り寄せ、木を植えた。大正4年頃になって、故郷から妻かよの弟清水平十朗をはじめ親族を招き寄せ、やがて岐阜県から親族以外のかたも多く移り住み同郷の先導者として働いたと書かれている書物(近江の先覚)からも当時の状況を知るところです。
nashiこのあたりは、御存じのように、丘陵地帯といいますか、狼川と隣の月輪(つきのわ)村を流れる川の間を山手から琵琶湖にかけて、かまぼこのように真中が盛り上がっている地形で、水田をつくるような水を
引くことができませんでした。荒野のまま残されていた要因のひとつと思われます。
今のようにポンプの無かった時代は、井戸を掘って、そこから木々の1本1本に水を運ぶご苦労もあったように思います。
果樹というのは冬に苗木を植えます。ですから1年間かけて開墾、整地した土地、ここのところをまとめてその年の冬に苗木を植えます。昭和の時代に入りまして、生産量がどんどん増えて来ると、果樹組合を結成し、市場(いちば)を通して、かなり大量に出荷されていきましたが、最初のうちは、生産物もそんなにたくさんとれるわけではないですから、リヤカーで草津の町に売りに出かけたり、石山、大津の八百屋さんに持ち込んで、買っていただいたように思います。
当時、果樹に寄りつく病害虫の駆除や予防方法が十分に解明されておらず、これに対する調査・研究に取り組む日々が続いたようです。そして、大正の末期、ついに薬剤散布による方式が病害虫の駆除・予防に著しく効果があることにたどり着き、結実の安定確保に繋がったことで、大規模農園の経営へとすすんでいかれました。
tana梨は、植えてから、商品となるまでは、少なくとも4~5年、あるいは柿なんかになりますと7~8年ぐらい待たないと収穫できないわけですね。そのようなことを考えますと、多分、かなりの資金力を持って入植されたのではないか。そうでないと成り立たないということですから、そこそこあるいはかなりの資金力を持って入植されたというように考えられております。確かに、そのような面はあるかも知れませんが、厳しい財政事情のなかでやりくりをされてきたときいております。ですからその開墾に当たっても、家族の労力だけではなかなか難しいので、故郷から親せきを呼び寄せました。それでも足りない分は、何人かを雇って、開墾されていかれた訳ですが、相当の信念や覚悟がないとなかなかできないことだと思います。また、理解を求めながら借財して経営を繋いでこられました。
5月の花が咲き誇る頃、川瀬さんの家では、梨の上に丸太(まるた)と板を使って広い桟敷(さじき)をつくられました。梨の花は上から見ると白いじゅうたんが一面に敷き詰められたように見えます。花の時期は、めったに畑に人を入れることは無かったのですが、京都のお菓子の老舗(しにせ)の人に借財し、この返済はしましたが、借入をした時期と貨幣の価値が大きく変わってしまい、お礼の尽くしようは図り知れないものがあるということで、毎年、その人たちをお招きして成育した状態を見ていただくために催されたと言われています。