桃の季節・梨の季節・柿の季節  笠山の果樹栽培

No 83103

果樹を開いた人たち

 

この笠山は、残念ながら入籍した明治末期から昭和の初期については、当時を知る人の多くがお亡くなりになっておりますので、今、現存しておられる人や関わりを持っていた人々から聞いたお話しを中心に私の体験を交えてお話しします。

これらのお話しの大半は、昭和から戦後あたりのことになるかも知れませんがお許しください。
笠山が、滋賀県の果樹の発祥の地といわれるのは、滋賀県で一番に果樹の木を植えたということではありません。
では、野心を持って滋賀の土地に進出し、大々的に果樹園を経営して事業を成功させたことが、笠山の名前を広めたのでしょうか。sigesaku
たしかに、史誌を綴った本のなかでも、志津・追分の桃園が明治中期にあったことを記していますが、大規模農園の起こりとして、川瀬茂作さんが果樹栽培に造詣がふかく進取の気性に富み、豪毅な性格の人で、彼が東海道(現在のJR)の車窓から笠山付近の丘陵を遠望して、ここが果樹園地として適していると見抜き、一大決心をして私財を処分し、明治四十五年にこの地に足を踏みいれた、笠山に果樹栽培が広がる前に、茂作さんと同郷の松岡多四朗という方が蒲生郡苗村というところで農事の傍(かたわ)ら果樹を始められています。
当時の滋賀県では、この地の人が開拓に着手したが倒産し、老上村(今の老上、玉川、南笠東学区)では数十町歩(五~六十ヘクタール )の荒廃地を抱えていました。
笠山もその一部でした。松岡さんは状況を見かねて、川瀬茂作さんに「滋賀県には果樹栽培に精通したものがなく、その後、果樹栽培をしている者はないが、君は、経験者だからやってみないか。
この地に移住し新産地を開拓して新生活をする意があるかどうか」という勧奨があり、一家の長でありながら奮起して妻子を伴って出立した。
同時に清水平十郎、清水九一の両家もこれに加わり、勇気を倍して故郷を離れ、荒れた原野に移住したという記述が日本園藝會(東京・昭和15年)にあります。
岐阜から移り住まれた方々のお話しを聞きますと、出身の安八郡(現大垣市内)はお寺の信仰心が厚く、お寺のおつとめがあると家族みんなでお参りをして、境内(けいだい)が一杯になる。そのような土地柄だったので「寺院の本山がある京都に親せき同士が連れ添って行かれる機会も多く、その時、汽車の窓から笠山の丘陵台地を眺めた御縁がこの地を結びつけてくださった」と親族に伝えられてきた逸話は、後に多くの人々が移住されてきた部分と結びつきます。
また、この地では既に桑(くわ)を栽培した畑があったこと、笠山に隣接する野路に宿場がありイモ畑が広がっていたことなど東海道の街道文化を下支えしていた人々の情誼(じょうぎ・付き合いや友愛の心)が、異郷の者を受け入れてくださるとともに、果樹栽培を魅力ある産業として一
緒に力を合わせて大きく育ててくださったことで、笠山の地が知れ渡るようになったことを歴史の流れから伺い知ることができます。
土地や品種の改良など苦労が絶えることはなかったが、粘り強く困難と克服していくかに見えた大正7~8年、笠山の梨園は全域を覆う病害虫に襲われました。翌年、県に掛け合って技術員の派遣および害虫駆除の指導を要請し、笠山の人たちとともに樹に寄りつく病害虫の駆除・予防の方法の調査・研究に徹底して取り組んだ。
bookそして、大正の末期、ついに薬剤散布による方式が病害虫の駆除・予防に著しく効果があることにたどり着き、結実の安定確保につながったことが、滋賀県の果樹栽培技術を前進させることになりました。
また、家畜を飼育し、その堆肥として果樹園に施工すると効果が上がるとその必要性を説きながら、荒廃地を耕す味方としたこと。このような流れをたどりますと、これに取り組んだ行政とこれに携わった人々の熱意が笠山を開祖や発祥地という名に押し上げたように思います。
柿の栽培について北村康一さんのお話しを聞きますと、「北村家で最初にこの地に足を踏み入れられたのは、大正3~4年頃。出身の岐阜県川崎村大月というところで中山道と揖斐川(いびがわ)が交わるあたりで、昔は渡しとなっていたところ、隣の呂久(ろく)の間にもう一本川がありましたが、大水のとき揖斐川が度々氾濫したので、真ん中に新しい川の付け替えがあって、畑がなくなったので、財産の全部を使ってこの地に来た」と。
北村さんは、宅地開発が進む前の道端でよく見かけたミノショウというお茶と当時、盛んであった養蚕(ようさん)事業に必要な桑を植えられましたが、東洋レーヨン(現東レ)が滋賀県に建てられ化学繊維が世に出ると、養蚕(ようさん)事業は軒並み倒産。大月村というところは、柿の産地で経験があったので、桑をやめて柿を植えだしたそうです。
昭和3年に昭和天皇の即位式があり、滋賀県でこの地の3名《北村竹次郎・覚之承(かくのじょう)・深田トクゾウ》に産物を献上するようお達しがあり柿を差し出したということで技術的にはかなり完成されていたように思われます。北村康一さんは当時小学一年生でしたが、柿の成育状態を見ると十年位の木。そこから大正6~7年位に植えられたものと推定されています。
「笠山の柿はもう少し前から植えられていた」ということですが、滋賀県の柿の産地として認められた証といえます。